2015年8月13日(木):晴れときどき曇り:出湯温泉・清廣館―(クルマ)→慈光寺
■ (新潟の温泉・霊場巡り その八からのつづき)公共交通機関を使って出湯温泉から五泉市蛭野の慈光寺まで移動するとしたら、時間をロスしながらバスや電車やタクシーを乗り継がなければならなかったが、清廣館のご主人(若女将のお父さん)のご厚意で慈光寺参道入口までクルマで送っていただいた。到着したときに差し出したお礼は快く受け取っていただけた。
慈光寺の参道は目の前だが、参詣する前にやっておかなければならないことがある。慈光寺には路線バスが通っているわけではないので、バスに乗れる旧村松駅まではタクシーで戻るしかない。しかも本日は参詣を終えたあとで、バスや電車を乗り継いで弥彦まで移動し、弥彦温泉に泊まる予定にしている。特に弥彦線は本数が少なく、電車を1本逃すだけで到着が大きく遅れることになる。そこで参道入口に建つ黄金の里会館で地元のタクシー会社を調べ、予定したバスと電車に乗れるようにタクシーを予約した。
駐車場から滝谷川にかかる門前橋をわたり、杉並木の参道に入る。橋の脇にたつ説明板では、杉並木について以下のように書かれている。
「参道136本の杉の老木は、樹齢300年から500年を経たもので、自然条件にも恵まれ、周囲の山々と美しく調和し、おだやかな流れを佇む滝谷川と相俟って寺院の荘厳さにすばらしい景観を添えています。巨木が並木として群生しているのは大変めずらしく、近郷市町村でも見られない光景です」
杉の老木の大きさに息を呑みながら参道を進む。参道ではまず六地蔵尊に迎えられる。順番に現われる六地蔵を通して、餓鬼道、畜生道、修羅道、地獄道、人間道、天道という六道を巡り、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、檀陀地蔵、日光地蔵という六地蔵を拝むことになる。
六地蔵の次に現われるのが三十三観世音菩薩で、西国三十三所を巡ることを意味している。さらに、慈光寺山門の石段まできたところで、再び六地蔵尊に迎えられる。
まだ書いていなかったが、慈光寺を目的地に選んだのはもちろん、この寺院がその南にそびえる白山(標高1012m)と深く結びついているからだ。今回の旅の参考書として何度も引用している中野豈任の『忘れられた霊場――中世心性史の試み』(平凡社、1988年)には、白山と慈光寺について以下のように書かれている。
「白山の古名は薬師嶽であった。現在の白山中腹に白山権現が祀られる以前に、既にこの山頂には薬師如来が祀られ、薬師如来の座す霊峰として、信仰を集めていた時代があったのである。おそらく、それは慈光寺が曹洞宗に改宗される以前のことであったと思われる」
「中興以前の慈光寺の性格については、全くわからないが、これを考えるヒントはある。それは、前掲の「明白山慈光住持用心内記」に記される「山上ニ小池アリ、亦三丈四方程ニ塚ヲ対シタル羊ナ土饅頭アリ」という記事である。ここに記されている山上の「小池」とは、冷水が湧出し旱天でも枯渇しないといわれるサバ池のことで、雨乞いの池として信仰されていた場所である。次に「土饅頭」と記されてあるのは、おそらく塚であろう。霊峰に赴き、塚を築き経典を埋納することは、全国的に広く行われた。白山山頂の塚も経塚なのかも知れない」
「また、霊山の地中に鉄仏・金銅仏を埋納する信仰も広く行われたが、白山々中の地中からも、やはり複数の鉄仏が出土している。地中に仏像を埋納したり、山頂に塚を築く行為は、おそらく現世と来世の幸福を願ってのことと思われ、浄土信仰との関連が考えられる」
そうした山岳信仰の歴史があるだけに、最初に今回の旅の計画をたてたときには、白山に登るつもりでいた。手元にある『谷川岳と越後の山』(山と渓谷社)には、慈光寺が登山口になるコースが紹介されている。慈光寺から三合目にある白山神社祠を経由して峰ノ薬師の祠がたつ山頂に至り、下りは天狗の腰掛、袴腰、送電線鉄塔を経由して慈光寺に戻る。歩行時間3時間50分、標高差850mとのことだ。交通の便が悪くなければ登れたかもしれないが、今回は慈光寺の参詣にとどめることにした。
この山域はまた、様々な伝説が残る場所でもある。そのなかに水に関わる伝説があるであろうことは、参道を歩いているだけでも容易に察せられる。滝谷川の清流が参道を何度となく横切り、参詣者は霊樹橋、不動橋、菊水橋という橋をわたり、清流を目にしつつ鳴瀧不動尊と慈光寺に至る。そして慈光寺山門の手前にたつ説明板では、「白山と大蛇」という伝説が紹介されている。
「応永年間(一三九四~一四二八)のこと、白山の奥地の池に住んでいた大蛇が、暴れて村人を困らせていたのを、傑堂和尚の読経によって、大蛇は俗世の苦しみから救われ、池を埋めて立ち去りました。池の跡に現在の慈光寺を建立したといわれています。大蛇は能代川を下って新潟の白山神社まで来て息絶えました。今でも、大蛇が楓にしっぽを巻き一休みのとき使った石枕が「蛇枕石」として境内に残っています」(越後村松 桜藩塾)
ちなみにわれわれは、旅の終わりにその白山神社に参詣する予定にしている。
この「白山と大蛇」の伝説は、説明板のスペースも限られているため物足りなく感じられるが、前掲の『忘れられた霊場』には、同じ起源を持つ伝説に興味深い解釈が加えられている。
「白山は薬師如来の座す山としてのみ信仰されたのではない。この山は、この地方の田畑を潤す水源、つまり水分(みくま)りの山でもあったのである。ここには水の神が祀られ、母なる山として信仰を集める。旱天には雨乞いも行われる。水の神は、しばしば「竜」や「蛇」の形で表現される。白山の地主神は大蛇である、という伝説があるのもこのためである。
伝説によれば、その昔、白山の幽谷には千尋の池があり、池沼が各所に存在していた。この千尋の池には巨大な蛇が棲息しており、農民に惨害を与えていた。大蛇の害に悩んだこの地の豪族神戸太郎最重は、耕雲寺の傑堂和尚を招き、大蛇の教化を願った。傑堂和尚は千尋の池に赴き、千古の枯葉を払い石上に座し、法脈を授け偈を示した。この石が現在慈光寺境内にある座禅石である。
その夜、一人の女がどこからともなく傑堂和尚の前に現われ、「私は大蛇であるが、師の法力により、濁世永劫の苦悩から離脱することが出来ました。この池を埋めて平坦な地にし、霊場として献上いたしますから、是非ここに伽藍を建立し、仏法を興隆して下さい。私は白山権現と化して、この寺院を守護いたしましょう」と語って、姿を消したという。現在、慈光寺の守護神そして白山の地主神として祀られている、白山権現がこれである。
この伝説にある大蛇は、白山の地主神、つまり水分りの神を意味している。大蛇の害とは水害を意味しているのであろうか。水分りの山である白山を信仰し、ここに水分りの神を祀る信仰は、古代以来いやそれ以前からのものかも知れない。しかし、中世も終りに近づいたころ、この山には傑堂和尚により慈光寺が中興され、ここが曹洞宗の道場となり、寺の守護神として白山権現が祀られた。かくして白山には、古来からの信仰と新しく入ってきた曹洞宗が共存する形になったのである。この二つの信仰が平和に共存している実態を、人々の納得のゆくように説明したのがこの伝説である。古来の信仰を排斥せず、むしろこれを摂取しながら、新しい信仰を広めようとしたのが曹洞宗の特色である」
それでは今度は伝説ではなく、慈光寺の栞でその開創を確認しておくことにする。
「慈光寺はその昔、南北朝時代、後醍醐天皇を支えた楠木正成公の直孫、傑堂能勝禅師によって開かれた。その後、多くの名僧高僧が輩出し、越後・奥羽・北関東一円に教線を拡張し、修行道場として、多くの「雲水」を育成した道場である」
この寺院は七堂伽藍、本堂、座禅堂、庫裏、経蔵などが回廊で結ばれた建築様式が素晴らしい。われわれは石段をのぼって山門をくぐったあと、経蔵・東司・浴司がある右手の回廊を進み、その先の立派な庫裏を拝観した。そこから院庭に出て本堂に参詣し、本堂から衆寮・座禅堂に回り、回廊を通って山門に戻ってきた。
栞によれば、本堂は宝暦13年(1763)、庫裏は宝暦9年(1759)、禅堂及び衆寮、山門、回廊、経蔵は江戸時代後期の建築。本堂・庫裏・座禅堂・衆寮・山門・回廊・経蔵・虚空蔵堂(別所)は国登録有形文化財とのことである。
山門を出たあとは、参道を戻る前に登山道の近くまで歩いてみることにした。その途中に登山者向けの説明板があり、マップが描かれていた。筆者は先述した慈光寺に戻ってくるコースしか知らなかったが、このマップで袖山、宝蔵山、権ノ神岳、粟ヶ岳を縦走するコースがあることを知った。
白山に登れなかったのは残念だが、月岡温泉の浪花屋旅館で出会った山好きの男性スタッフから、白山はヤマヒルが多いと聞いていたので、仮に時間を作れたとしても、今回のような装備ではやめておいて正解だったかもしれない。
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(新潟の温泉・霊場巡り その十につづく)
《引用/参照文献》
● 『忘れられた霊場――中世心性史の試み』中野豈任(平凡社、1988年)