2015年8月11日(火):曇り:菅谷バス停―(新発田市コミュニティバス)→新発田駅―(徒歩)→諏訪神社―(徒歩)→市島酒造
■ (新潟の温泉・霊場巡り その二からのつづき)菅谷不動尊に参詣し、菅谷発13:02のコミュニティバスで新発田駅に戻ってきた。次の目的地は清水園(旧新発田藩下屋敷大名庭園)だが、そこに向かう道の途中にあって、時間があれば参詣したいと思っていたのが、新発田総鎮守・諏訪神社だ。
新発田駅を背にして正面の目抜き通りではなく、左手の道を進んでいくと、右手に社を取り巻く緑の木々が見えてくる。
木々に沿って道なりに進むと境内の側面(南面)にたつ石鳥居の前に出る。この鳥居をくぐれば拝殿は目と鼻の先だが、正面(西面)に回ることにする。
交差点まできて右折するとすぐに随神門の前に出る。
諏訪神社は全国にあるが、この神社の場合は諏訪大社とどのように結びついているのか。『新潟県の歴史散歩』(山川出版社、2009年)では以下のように説明されている。
「社伝によれば、7世紀中葉の渟足柵(ぬたりのき)・磐舟柵(いわふねのき)の造営に関連して信濃国(現、長野県)の人びとを柵戸として移配した際に、諏訪大社の浄砂を賜って、現在の聖籠町諏訪山に安置したのが始まりという」
随神門をくぐり、川にかかる石橋をわたり、朱塗りの鳥居に向かって石畳の参道を進む。
諏訪大社ですぐに思い出されるのは、7年毎の寅と申の年に行なわれる御柱祭(おんばしら)だ。諏訪大社は、上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮という四ヶ所の境内地を有し、御柱祭ではそれぞれの社殿の四隅にたてる16本の樅の大木が切り出される。この諏訪神社の拝殿の前にたつ大木は、そのうちの下社秋宮から平成22年8月に下賜された「秋宮一之御柱」。
先ほどは諏訪神社のはじまりについて書いたが、その後、神社は新発田藩の発展とともに遷座を繰り返していく。その一で訪れた新発田城の築城と神社の変遷はパラレルな関係にあると見ることもできる。
新発田藩の初代藩主・溝口秀勝は、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命により6万石を与えられ、加賀国(現石川県)大聖寺から新発田に入封した。秀勝は、上杉景勝に滅ぼされた新発田重家の館跡である古丸を拡張するかたちで築城を開始した。その秀勝は慶長15年に没し、築城は宣勝に引き継がれ、三代目宣直の代の承応3年(1654)に完成した。
入封した秀勝はもう一方で、慶長5年(1600)に諏訪神社を城内の古丸に遷座した。つまりこの時期には、城と神社が一体になっていた。その後、三代目宣直の代の寛永15年(1638)に古丸から鍛冶町(現在の大手町)へ、四代目重雄の代に泉町(現在地)に遷座。そして宝暦6年(1756)に七代目直温によって建立された社殿が現代へと受け継がれたが、平成13年11月に不審火によって焼失。現在の社殿は平成16年8月に再建されたものだ。
祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)、八坂刀賣命(ヤサカトメノミコト)、そして初代藩主・秀勝である。
諏訪神社の前の交差点をはさんではす向かいに創業200年以上の伝統を持つ日本酒の蔵元・市島酒造がある。清水園に向かうルートでもあるので、遠巻きに眺めていたら、店の人が出てきて見学を勧められたので立ち寄ってみることに。
興味深かったのは、総本家「市島家」が慶長年間(1598年)に初代藩主・溝口秀勝に随伴して加賀大聖寺から新発田に移住してきたこと。この総本家も新発田藩とともに発展を遂げたわけだ。この市島酒造は、初代市島秀松が寛政年間(1790年代)に宗家より分家し、現在の地に創業したという。創業時は諏訪神社の前に酒蔵を構えていたことから「諏訪盛」という銘柄だったが、昭和初期、四代目長松が欧州に留学した際、王家の紋章にいたく感銘をうけ、以来、銘柄を「王紋」に変更したとのこと。
この蔵元では、杜氏蔵、市島蔵、蔵元展示室などを回って、酒造りと市島家の歴史を伝える収蔵品の数々を見学することができる。それぞれのスペースに入るとセンサーが反応して、酒造りの道具や歴史について説明が流れる仕組みになっている。夢蔵には試飲コーナーもあったようだが、われわれはそちらには寄らなかった。
市島酒造を出て、大名庭園・清水園に向かう。
清水園の入口の向かいに、新柳本店というそそられる菓子が並ぶ店があり、店内で食べることもできたので、立ち寄ることに。地元では、清水園まんじゅうの店として親しまれているらしい。
われわれは、えだ豆大福とアスパラチーズタルトを食べたが、どちらも素材の味が生かされていて旨かった。日持ちするなら笹だんごロールを買いたかったが、諦めた。
(新潟の温泉・霊場巡り その四につづく)