2006年9月10日(日):晴れ:阿夫利神社下社 登拝門→富士見台→頂上本社→雷尾根→見晴台→勝五郎地蔵→九十九曲がり→浄発願寺奥の院→日向薬師バス停→伊勢原駅
■ (2006秋の丹沢・大山詣で その二からのつづき)「その二」では、大山寺からスタートし、二重滝・二重社に寄り、阿夫利神社下社に参詣し、頂上への登山口となる登拝門をくぐろうとするところで終わった。今回は登拝門から頂上に至る本坂を登り、頂上から見晴台を経て日向薬師に下る。
「その二」で書いた登拝門をくぐるといきなり急な石段になる。本当に急な石段で、上から見下ろすとかなりの高度感がある。
石段を登りきったところには興味深い石碑や石仏が見られる。この石碑は「石尊宮」と読める。大山の信仰は、山頂の石を崇拝する石尊信仰が起源となり、後の大山詣での広がりによって各地に石尊宮が勧請されたという。
本坂には起点となる登拝門から終点となる頂上まで一から二十八丁目までの標石が置かれている。そして、それ以外に古い標石も残されていて、そちらは丁目ではなく町目が使われている。
石段の手前に建つ阿夫利大神の石碑。石碑のわきに「白山神社」と書かれた案内板があり、以下のように説明されている。
「大山修験(山伏)は、山中で行う修行の中で、白山神社を拝するのがその一過程であった。当社は加賀の国、白山神社と関係深く、大山寺開山(七五二年)前に建立されたといわれる」
神仏習合以前にそのようなネットワークが存在していたということを意味しているらしい。
先ほどの標石は古いもので、こちらがいま実際に利用されている標石。ここは四丁目で、終点の二十八丁目まで先は長い。
登山道はほとんど樹林帯で、ガレた坂道と石段が繰り返される。
たまに樹林の間から南の方角の展望が開ける。
六丁目付近。標石には丁目のほかに、千本杉と刻まれている。そんなにたくさんの杉があるわけではないが、大木が目立つ。
登山道わきに残る石垣。かつて茶店があった場所ではなかったかと思う。
十五丁目の標石には天狗鼻突岩と刻まれている。標石の上にある大岩の左の方に丸い穴が空いていて、天狗が鼻で突いてできたといわれる。
二十丁目の富士見台までやってくる。ここは展望が開け、運がよければ富士山が拝める。
山頂手前の二十七丁目には鳥居が建っている。標石には御中道とある。鳥居の先の石段以外に、鳥居のわきから左に進む道があり、山頂の東側に出られる。そちらからは富士山がよく見える。
二十八丁目の鳥居をくぐり、山頂に到着。
石灯籠には鳶中と刻まれている。江戸時代に鳶は火消しでもあったので、時代は定かではないが、少なくともそうした火消しの文化を継承する講中によって奉納されたものではないかと勝手に想像する。
阿夫利神社本社の石碑。
山頂には前社、本社、奥社の三社があり、石段を登ったところにあるのが前社。祭神は、二重滝のところにあった二重社と同じ髙龗神で、水をつかさどる神として知られる。
右手奥に見えるのが、雨降木と呼ばれる古木。この木に常に露が滴っていたことから雨降り山と云われるようになったと伝えられる。
石段を登って前社の右手を進むと左手にある本社。主祭神の大山祗大神が祀られている。
本社の先の石段を登ると広場になり、その奥に奥社がある。祭神は大雷神。
広場のうえをトンボが舞っていた。
山頂から南西方向の展望。霞んではいるが真鶴岬や伊豆半島も見える。
南東方向の展望。
奥社のある広場からトイレがある平場に下り、見晴台に通じる雷尾根を下る。最初は丸太階段がつづく。
果実が赤く熟したマムシグサ。この時期にはよく見かける。
途中の展望所から筆者が暮らす横浜方面を眺める。みなとみらいに建つ横浜ランドマークタワーも見える。
木のベンチとテーブルが並ぶ広場、見晴台に到着。大山を眺めながら休憩する。ここは阿夫利神社下社に通じる道との分岐にもなっている。そちらの道を行くと、登りで立ち寄った二重滝を経由して下社に出る。
見晴台を出発し、日向薬師に通じる道を下っていく。その途中で樹林の間から阿夫利神社下社が見える。
さらに樹林帯を下っていくと勝五郎地蔵と呼ばれる等身大のお地蔵さんが立っている。少し暗くなってからここを通るときには、いきなりお地蔵さんを目の当たりにしてぎくりとすることがある。
お地蔵さんを過ぎるとジグザグがつづく九十九曲がりという坂道になる。
沢の流れが見えると舗装された道に出る。林道の右手は日向ふれあい学習センターになり、キャンプ場などがある。
日向地区に出たら、立ち寄りたいと思っていた場所がある。かつてこの地にあった浄発願寺の跡で、浄発願寺奥の院と呼ばれている。この寺院の歴史と運命を知れば、興味を持たれる人も少なくないのではないだろうか。案内板には以下のように説明されている。
「無常山浄発願寺は、慶長13年(1608)弾誓上人開山の天台宗弾誓派本山である。上野寛永寺の学頭寺凌雲院の末寺として、江戸時代に繁栄し、4世空誉上人の時代が全盛期だった。「男の駆け込み寺」で知られ、放火・殺人以外の罪人は駆け込めば助かった。また、木食行(穀物をさけ、木の実・草の実などを火を通さないで食べる)の戒律を大正初期まで守り続けた。さらに、雨乞い・安産信仰等でも知られ、10月の「お十夜法要」は、鎌倉市の光明寺、平塚の海宝寺とともに相模の三大十夜に数えられ、昭和初期まで盛大であった。
信者には、公家の広幡家や、徳川本家、尾張徳川家、藤堂、佐竹、大久保、黒田、有馬、織田氏等があり、境内は165,600坪もあった。寺宝としては、市重要文化財の縁起絵巻三巻や、雨乞軸、唐金の子安地蔵、出山の釈迦像など、数多くの像がある。昭和13年(1938)の山津波で、この地にあった浄発願寺は、諸堂宇が壊滅し、当地に復旧困難なため、昭和17年(1942)に約1km下の地に再建し、以後この地は浄発願寺奥の院と称し、市指定史跡にもなっている。
この地には、弾誓上人が修行した岩屋や、罪人53人に一段ずつ築かせた石段(平成3年/1991/3月再建)等があり、参道には、浮世絵師歌川国経の供養塔(現在は浄発願寺に移してある)や極楽浄土に往生できるよう祈願した「南無阿弥陀佛」の名号碑などがある」
浄発願寺奥の院は、林道を挟んでふれあい学習センターの向かいにある。日向川にかかる一の沢橋をわたると、まず閻魔堂跡があり、その右奥に宝篋印塔がたっている。ところがそこまで来たところで、この史跡が整備中であることに気づく。
但し、見学を禁じるような立て札は見当たらないので、山門跡を通り、丸木階段を登って、堂宇跡や岩屋へと向かう。ところが、途中で足首に嫌な感じがして調べてみると、ヒルにやられてソックスに血が滲んでいた。林道に出たところにも、一の沢橋にもヒル注意の標識があったが、さっそくやられてしまった。これでは落ち着いて散策できそうもないので、本日は諦めることにする。
奥の院を出て、林道を下っていくと右手に現在の浄発願寺がある。境内には立派な三重塔も建っている。
大山は水を司る水分(みくまり)の神でもあるので、最後は豊かに実った稲穂の風景が相応しい。稲穂を眺めたあとは、日向薬師バス停からバスに乗り、伊勢原駅に戻った。
この日向地区は、浄発願寺奥の院のほか、日向薬師、白髭神社、石雲寺などなど神社仏閣、史跡の宝庫といってもいい場所なので、またあらためて紹介することにしたい。
(2006秋の丹沢・大山詣で 了)
《参照文献》
● 『相州大山 今昔史跡めぐり』宮崎武雄(風人社、2013年)
● 『大山不動と日向薬師』宇都宮泰長、鈴木隆良(鵬和出版、1981年)