2015年8月14日(金):曇りときどき雨:彌彦神社御神廟(奥宮)→ロープウェイ山頂駅→ロープウェイ山麓駅→万葉の道→彌彦神社拝殿→摂末社→舞殿→宝光院→婆々杉→弥彦温泉街
■ (新潟の温泉・霊場巡り その十一からのつづき)前回は弥彦山頂上の御神廟に参詣したところまで書いた。ガスに包まれ展望がきかない頂上をあとにし、ロープウェイ山頂駅に戻る。
山頂駅の前もガスに包まれ、近くにある展望レストランやパノラマタワーも見えなくなっている。
ロープウェイで下るに従って視界が良好になる。右手に温泉街、中央の杜のなかに神社の建物、左上に弥彦の丘美術館が見える。
ロープウェイから越後平野を見渡す。連綿とつづく農耕の営みが弥彦山をめぐる信仰と深く結びついていることは容易に想像することができる。
戻りは山麓駅と拝殿を結ぶ「万葉の道」を、バスを利用するのではなく歩くことにする。この道には、「万葉集」に詠われている植物のうち、弥彦山に自生している60余種が集められている。「万葉集」の時代と現代では呼び名も違い、それがわかるとそれぞれの和歌から浮かぶイメージも変わってきたりする。
万葉の道から弥彦山の登山道に入る分岐。われわれが通ったときにも、ザックを背負った登山者がひとり、鳥居をくぐっていった。高い山ではないので、10:30から登っても遅くはない。弥彦山の頂上からは、岩室温泉にも、手まりの湯に下ることもできる。どこに下りても湯に浸かれるのがいい。
拝殿まで戻ってくる。参詣者の数が増えている。「その十一」で書いたように、平成27年は社殿がこの地に再建されてから百年にあたり、年間を通して御遷座百年の行事が行われている。
拝殿をあとにし、摂末社に参詣する。鳥居をくぐり、石段を上ると、5つの摂社と3つの末社が一列に並んでいる。そのなかで最も目を引くのが、向かって右手にある十柱神社。「その十一」でも引用した神社編『彌彦神社』では以下のように紹介されている。
「随神門の手前、右側に一列に並ぶ摂末社の一番右に、ひときわ大きく目立つのが十柱神社である。室町時代の手法を伝え、元禄七年(一六九四年)、長岡藩主牧野家の奉納にて建てられたものである。昭和二十五年には国の重要文化財に指定された。桁行三間、梁間三間、屋根は入母屋造の妻入り様式で茅葺き、表妻入り下に一間の板葺き張り出し向拝を付けた形式は一見簡素であるが、蛙股、虹梁、拳鼻などの絵様彫刻に桃山時代の特徴を現す様式や結構が伝え残されているもので、明治四十五年、弥彦大火以前までは現在の舞殿近くの杉林の中にあって、御祭神の安寧をお護りしていた」
さらに参道を戻ると、舞殿と楽舎、参集殿がある。この建物についても前掲『彌彦神社』に興味深い記述がある。
「この舞殿だけに用いられた扇状形式垂木は、中国の唐の建築様式であり、舞楽が遠く唐の国から伝わった舞であることへのこだわりとも受けとめることができる。
後述の第6章で詳しくふれるが、彌彦神社には数々の舞楽があり、大別するとその第一は神歌楽と天犬舞、第二は大々神楽、第三は小神楽(乙女舞)となる。この舞殿で奉奏するのは大々神楽だけで、四月十八日の妻戸大神例祭での全十三曲の奉奏と、三月十八日を奉奏始めとし、この日より六月までの春と、九月・十月の秋との二期に分けて、毎土曜日に大々神楽が一、二曲ずつ奉奏され、参拝者ともども古えの雅の時をすごしている。
この舞殿北脇に、大々神楽拝観所(現・参集殿)として、間口十一軒、奥行三間半に幅四尺廊下を付けたこの建物が、多くの大々神楽講員の拝観に供する場となった。しかし、舞楽奉奏は神前に相対しての舞振りとなるのを旨とするところから、舞殿脇からの拝観の様を呈する姿となるもので、大神様の御心慰めにと奉奏する舞楽を、真摯な心で横から拝観させていただく趣となるのである」
参道が右に曲がる広場まで戻ってきた。この広場は宝物殿と接しているが、かつての社殿はこの宝物殿のあたりに建っていたという。一の鳥居から参道を直進するとそのまま拝殿の前に至る配置になっていたことになる。
彌彦神社の駐車場から弥彦山を眺める。右の方に小さくロープウェイが見え、左が頂上になる。われわれはその間を歩いてきた。今もガスがかかっているので展望はきかないはずだ。
神社脇の旧北国街道沿いには弥彦参道杉並木が残っていて、その並木道を進んでいくと弥彦競輪場の隣に宝光院がある。案内板があるが「その十一」でも触れた中部北陸自然歩道のためのものなので、宝光院に関する説明は短い。
「宝光院は建久6年(1196年)源頼朝公の発願によって大日如来を本尊として開基されたといわれています。また本尊とは別に県文化財指定の毘沙門天のほか阿弥陀如来、薬師如来、十二神将などの諸仏が安置されている。このほか境内には俳聖芭蕉の句碑や良寛上人の歌碑なども建てられている」
この説明だけではあまりに寂しいので、弥彦観光協会Webサイト|弥彦浪漫からリンクをたどり、弥彦村の文化財を参照すると、寺院に関わりのある歴史が見えてくる。もともとは紫雲山龍池寺という大寺院が弥彦山の山麓に存在したらしい。鎌倉幕府から弥彦に来た地頭僧禅朝が薬師堂を弥彦山麓北谷薬師平に移した紫雲山龍池寺は、12の房舎と山門のある堂々たる堂舎を持ち、修行者の修練道場になっていたという。そして一時は大いに栄えたが、延徳3年(1491)改易となり、取り壊された。宝光院はその末寺で、廃仏毀釈が猛威をふるったときには衰退したが、現在の位置に復興され、かつて龍池寺に祀られていた仏像や神仏習合時代の彌彦神社神宮寺の本尊だった阿弥陀如来像などが安置されているということのようだ。
境内に入り、阿弥陀堂に通じる参道を進むと左手に芭蕉の句碑がたっている。案内板では以下のように説明されている。
「俳聖松尾芭蕉は門人曽良と共に奥の細道をたどった漂白の旅の途中、元禄二年(一六八九)七月三日弥彦神社に詣でて、この地に宿泊している。
荘厳にして緑深き美しい自然の中での着想が、のちにこの名句を生んだといわれている」
今回の旅では、中野豈任の『忘れられた霊場――中世心性史の試み』が一番の参考書になっているが、ここでも宝光院と阿弥陀如来像に関する記述を引用しておきたい。
「新潟県西蒲原郡弥彦村の弥彦神社は、越後国一宮として古来から信仰を集めてきた。古代末から中世の浄土信仰の高揚期にあっては、弥彦大明神の本地は阿弥陀如来で、弥彦の地は安養九品の荘厳があると喧伝され、また西方極楽浄土の入口として信仰を集めていた。弥彦村の宝光院の阿弥陀堂に安置される、鎌倉時代の彫法・様式をもつ阿弥陀如来像は、かつては弥彦神社の神宮寺に弥彦本地として安置されていた仏像である。大正時代の頃まで、弥彦神社に参拝する老人の中には、「弥彦様へお詣りしても、この御阿弥陀様も拝まないと、参詣の御利益がない」といって、この阿弥陀堂に詣る人もあったという」
宝光院に参詣して見逃すわけにはいかないのが、寺院の裏山にある婆々杉だ。阿弥陀堂と本堂をつなぐ回廊をくぐり、小さなお堂の脇を過ぎると墓地になる。地蔵が佇む道を進むと、その巨樹が現われる。樹齢約千年、目通り周10m、樹高約40mという杉の巨木だ。もちろんその大きさには圧倒されるが、樹皮の表情や枝振りなどが独特の空気を漂わせている。
先述した弥彦村の文化財では、この巨木にまつわる伝承が以下のように説明されている。
「今から900年以上前の承暦3年(1079)弥彦神社造営の際、上梗式奉仕の日取りの前後について、鍛匠(鍛冶屋)黒津弥三郎と工匠(大工棟梁)の争いとなった。これに負けた弥三郎の母(一説に祖母)は無念やるかたなく、恨みの念が昂じて鬼となって、形相ものすごく雲に乗って飛び去った。それより後は、佐渡の金北山、蒲原の古津、加賀の白山、越中の立山、信州の浅間山と、諸国を自由に飛行して悪行の限りをつくし、「弥彦の鬼婆」と世人に恐れられた。
それから80年の歳月を経た保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が弥彦の大杉の根元に横たわる一人の老婆を見つけ、悪行を改め、本来の善心に立ち返るよう説得し、さらに秘密の印璽を授け「妙多羅天女」の称号を与えたところ改心した。その後は神仏、善人、子どもの守護に尽くしたので、村人はこの大杉を「婆々杉」と呼ぶようになった」
時間があればこの宝光院の他にも訪れたい寺院があった。修験道とも結びつきのある寺院だ。『新潟県の歴史散歩』では以下のように紹介されている。
「弥彦神社から県道2号線に出て約2km北上すると、かつて修験道の霊場として知られた石瀬集落がある。集落内の県道は旧北国街道とほぼ一致しており、集落入口近くにある浄専寺(浄土真宗)には、江戸時代末期のすぐれた枯山水式の庭園(県名勝)がある。庭師は、当時「猫」とよばれていた三条の人だと伝える。
県道をさらに200mほど北に進み、集落中央の交差点を西に曲がると、行基が開山したと伝えられる青龍寺(真言宗)に至る。石瀬集落の中心地で、脇には祓川が流れている。西100mには、多宝山山中にあった薬師如来像を移し、まつった薬師堂がある。
青龍寺から400mほど北に、種月寺(曹洞宗)がある。1446(文安3)年、守護上杉房朝の援助により創建されたと伝え、耕雲寺(村上市)、雲洞庵(南魚沼市)、慈光寺(五泉市)、とともに、越後曹洞宗四箇道場に数えられている」
慈光寺に参詣したので種月寺もと考えていたが、またの機会にする。この石瀬集落については、『忘れられた霊場』の以下の記述と結びつけるとさらに興味深いものになる。
「現在、弥彦山塊から石瀬の部落に「祓川」という川が流下している。弥彦山塊はこの対岸にあるので、岩室方面から弥彦へ参詣する者はこの川を越えなければならない。この川が浄土と穢土を区切る精進川であったのかも知れない。また弥彦参詣には、岩室―石瀬―弥彦というコースがよく利用され、岩室温泉に止宿する人も多い。岩室における温泉の湧出は近世初期には既に知られていたようであるから、中世でも参詣者に利用され、精進落しの湯の役割を果たしていたことも考えられる」
宝光院から温泉街に戻り、土産物店で買い物をし、清水屋旅館で荷物を回収し、弥彦駅に向かう。
(新潟の温泉・霊場巡り その十三は準備中です。しばらくお待ちください)
《参照/引用文献》
● 『彌彦神社』彌彦神社編(学生社、2003年)
● 『忘れられた霊場――中世心性史の試み』中野豈任(平凡社、1988年)
● 『新潟県の歴史散歩』新潟県の歴史散歩編集委員会編(山川出版社、2009年)