2012年11月25日(日):晴れ:錦屏山瑞泉寺→若宮大路→鎌倉ごはん・海月→鎌倉野菜工房→鶴岡八幡宮→巨福呂(小袋)坂→福源山明月院→茶寮・風花→北鎌倉駅
■(2012秋の鎌倉散歩 その二からのつづき)前回は瑞泉寺を出たところで終わった。時間は昼前で、お腹もへってきたので食事をすることに。来た道を若宮大路まで戻り、鳩サブレーでお馴染みの豊島屋本店の先を右に入る。道を真っ直ぐに進めば小町通りだが、曲がってすぐのところの左手2階にある「鎌倉ごはん:海月」に入る。階段に席が空くのを待つ客が3組ほど並んでいたので、しばらく待つ。
「海月(うみづき)」では、鎌倉野菜や佐島漁港直送の海の幸を使った料理が食べられる。ランチタイムは11:30~15:00。注文したのは鎌倉野菜のおばんざいランチ。鎌倉野菜を使ったお惣菜の小皿6品+本日のご飯+お漬物+お味噌汁+デザートという内容。素材の味を楽しめる。
海月を出て、これといった目的もなく鶴ケ岡会館の方向に歩いていくと、店先に並ぶピクルスにそそられ、「鎌倉野菜工房」という店に入ってみる。鎌倉野菜を使ったピクルスや新鮮な湘南の地魚を使ったスモークを売っている店だ。
一通り見てまわり、味見もして、たくわんのスモークといろいろ野菜のピクルス(胡瓜、にんじん、大根、カリフラワー、伏見唐辛子)を購入。ビールのつまみにもよく合う。ピクルスを食べ終わって残った漬け汁は、店員さんに言われたとおりドレッシングにした。こちらもいける。
なおもしばらく小町通り近辺をうろついてから、鶴岡八幡宮のわきに出て、巨福呂(小袋)坂を行き、山ノ内方面に向かう。建長寺の前を通り過ぎ、横須賀線の踏み切りの手前で右折し、明月川にぶつかったところでまた右に曲がり、川に沿った道を明月院に向かう。
明月院の門前の石碑には、明月院の上に「本朝十刹第一位 禅興仰聖禅寺跡」と刻まれている。明月院はもともと明月庵と呼ばれ、禅興寺という大寺の塔頭(支院)だった。禅興寺は、蘭渓道隆を開山に迎え、北条時宗が創建した寺で、関東十刹の一位とされた時代もあったが、のちに衰退し、明治時代に廃寺になったという。
門前にある説明板では、塔頭として成立した明月院は、開基が上杉憲方、開山が密室守厳と記されているが、境内の別の説明板を見ると、その前に長い歴史があり、上杉憲方が中興開基と位置づけられていることがわかる。そのことについては、またすぐに触れる。
明月院を訪れた人はだいたい、まず橋を渡り、磨り減った石段を登り、山門をくぐって本堂(方丈)に向かうと思う。ところが筆者は、ここに来ると本堂には向かわず、東よりの道に入り、開山堂の方向に進んでしまう。最初にやぐらを拝みたくなるからだ。
やぐらとは、鎌倉に特有の中世の墳墓だ。それは鎌倉の立地と深く関わっている。三方を山、一方を海に囲まれた天然の要害である鎌倉では、利用できる土地が限られ、墳墓にも大きな影響を及ぼすことになった。
大三輪龍彦の『鎌倉のやぐら』(かまくら春秋社、1977年)では、仁治三年(一二四二)に出された、鎌倉御符内における墳墓を禁じる法の影響が以下のように説明されている。
「この規制をうけて、一部には規制対象地外に改葬されたものもあろうが、大部分のものについてはやぐら埋葬に切り換えられていったように思う。やぐらが密集している鎌倉御符内を取り巻く丘陵部はそれ自体御符内の地であったろうが、仁治三年の墓所禁止の目的が、平地部分の確保にあったのだから、何ら平地の面積を減らすことのない、横穴式の墳墓についてまで禁ずることはなかったにちがいない。だから鎌倉御符内に特殊な例を除いては、やぐら以外の墓所を営むことは不可能でどうしても鎌倉御符内に墓を造ろうとすればやぐら埋葬しか許さることはなかったのであろう。一方、この禁止令は鎌倉御符内だけを規制区域としていたから、それ以外のところでは自由に、いままでどおりの木造墳墓堂を中心とする平地墓所を営むことが自由であった。やぐらのほとんどが鎌倉に集中していて、一歩鎌倉から離れると数えるほどしかないというのも、こうした事情があったからであろう」
そんな事情が鎌倉にやぐらという独特の造形を生み出した。明月院の開山堂を囲む山の壁面には複数のやぐらの遺構がある。そのなかでも異彩を放つ明月院やぐらは、鎌倉で最大級といわれる。やぐらの前にたつ説明板には以下のように記されている。その内容は、先ほど少し触れた明月院の歴史とも関わりがある。
「「やぐら」は中世鎌倉時代特有の洞窟墳墓である。開口七メートル、奥行六メートル、高さ三メートルで、鎌倉市現存の最大級である。
壁面中央には釈迦如来・多宝如来の二仏と両側に十六羅漢を浮き彫りにし、中央に明月院中興開基、上杉憲方公をまつる宝篋印塔、その前には禅宗様式を表わした香炉が安置されている。
このやぐらは、もともと、永暦元年(一一六〇年)平治の乱、京都で戦死したこの地の豪族、山ノ内俊道の菩提供養の為に子供である山ノ内経俊によって造られたと伝えられ、その約二百二十年後に上杉憲方が生前に自から墓塔を建立したと伝えられるが、凝灰岩質であるために風化が著しく、それらの彫成年代は明確ではなく今後の解明が待たれる。
上杉憲方公は上杉重房公の四代目の曾孫で山ノ内上杉家の祖。憲方公の子孫の憲政の時、北条氏康との戦に敗れ越後の長尾景虎を頼り上杉の家名をゆずった。
長尾景虎は後の戦国時代の武勇、上杉謙信である。」
そのようなわけで、上杉憲方が中興開基と位置づけられている。
やぐらには様々な造形が施され、他でもたとえば、梵字や五輪塔、地蔵の浮き彫りを目にすることはあるが、壁面中央に釈迦如来・多宝如来、両側に十六羅漢の浮き彫りという壮麗なものは見ない。但し、それがいつ彫られたものなのかによって、その意味も変わってくるので、単純に他のやぐらと比較することはできないだろう。
浮き彫りはだいぶ風化してしまっているが、その時間の重みも含めて荘厳な雰囲気を漂わせている。ちなみに、先ほど引用した『鎌倉のやぐら』のまえがきには以下のような記述がある。
「本来、我々の祖先の墓であるやぐらは、広くその所在を明らかにして、子孫である我々が祈りを捧げるべきなのであるが、現在までのところでは、所在を明らかにすると、必ず人工的に荒らされてしまうという事実から目をおおうことができない。やぐらの保存のためには、所在をなるべく知らさないようにすることが必要なのである。更に、やぐらが鎌倉特有のものであることから、ただ、珍奇な価値のみを追い求め、場所や一穴々々の状況を知っていることを誇らしげに自慢する族に資することもしたくはなかった。やぐらは偉大なる祖先の墓なのである。守られ、敬われ、そして伝えられなければならない。」
筆者がなぜやぐらに関心を持つのか、以前は漠然としたところもあったが、この記述を目にしたことがきっかけで振り返ってみて、信仰登山に関心を持って山に登っていることと繋がっていることに気づいた。簡単にいえば、山中他界観に通じるような他界をやぐらの世界に垣間見ていたということだ。そのことについてはまたあらためて書きたいと思う。
やぐらという他界に触れたあとで、今度は開山堂にお参りする。明月院は禅興寺の塔頭だったと書いたが、この開山堂はそんな歴史と関わりがある。説明板には以下のように記されている。
「このお堂は禅興寺隆盛時代(一三八〇年頃)明月院境内の中に建立されていた宗猷堂(そうゆうどう)を後に開山堂としたものである。
堂内中央には建長寺開山蘭渓道隆(大覚禅師)の五代目の法孫で当院開山密室守厳禅師(一三九〇年六月九日示寂)の木像、向かって左に最明寺・禅興寺・当院の歴代住持の位牌が祀られている。」
その開山堂から本堂(方丈)に移動する。こちらはけっこう賑わっている。本堂の円窓を通して背後に広がる広大な庭園を眺める。すでに色づいている木々もあるが、まだ少し早いようだ。
本堂の前にある枯山水を眺めながら、午前中に見た瑞泉寺の夢窓国師の庭を思い出してみる。国師の庭はこうした作庭のルーツともいえるわけだが、瑞泉寺の庭が漂わせる雰囲気はどこかやぐらに通じるところもあるように思える。
そういえば、瑞泉寺の説明板には、「寺背の山に多くのやぐら群をふくむ境内地がほぼ全域にわたって保持されている」と記されていたが、国師はやぐらというものをどのように見ていたのだろうか。ちょっと気になる。
ほとんどの拝観者とは逆に、本堂から山門をくぐり、石段を下り、しばらく竹林を眺めて寺をあとにした。
北鎌倉駅に向かう前に、明月院の目の前にある茶寮・風花に立ち寄った。少し冷えてきたので、セイロで出てくる蒸したてのうさぎまんじゅうが美味かった。
(2012秋の鎌倉散歩 了)