2015年8月14日(金):曇りときどき雨:弥彦温泉・清水屋旅館→彌彦神社―(無料シャトルバス)→弥彦山ロープウェイ山麓駅―(ロープウェイ)→山頂駅→御神廟(奥宮)
■ (新潟の温泉・霊場巡り その十からのつづき)弥彦温泉の清水屋旅館に泊まり、5:00過ぎに起床。旅の最終日。今日は目的地へのアクセスであれこれ考える必要がないので、その分気楽ではあるのだが、彌彦神社と弥彦山頂上の御神廟(奥宮)以外にも、時間に余裕があれば回りたい場所がいくつかある。
部屋の窓から目の前にある一の鳥居を眺める。夜中に雨が降ったようなので窓枠は濡れているが、いまはやんでいるようだ。6:00になったので1階の浴室に行き、湯に浸かる。7:30に1階の食事処で朝食をいただく。海の幸とご飯が美味い。
部屋で食休みし、旅館のロビーで荷物を預かってもらい、8:20頃に彌彦神社に向かう。この神社を目的地に選んだのはもちろん弥彦山との深い結びつきに関心があったからだ。
作家の森敦はしばらく弥彦に暮らした。その経験が反映された短編「かての花」(『月山・鳥海山』)は以下のような文章で始まる。
「弥彦山は広い蒲原平野を、日本海からまもる自然の牆壁をなすびょう然たる山々の一つである。すなわち、新潟市から西南に延びる砂丘が隆起していつしか長者山になり、角田山になり、弥彦山になる。これが更に連亙して、蛇ガ峰、猿ガ岳となり、良寛で知られる国上山に至っているが、角田山よりもやや低く、蛇ガ峰よりも僅かに高いにすぎない。にもかかわらず、ひとり弥彦山はいわゆる前山をひかえ、長い稜線を持つアスピーテ型の山容をみせ、小ながらも月山を彷彿させ、山々を渡り来たった神々の、好んで屯するところとなるであろうことを感じさせる。ここに越後一ノ宮弥彦神社があり、古歌にも、
伊夜比古は神にしませば青雲の
たなびくときも小雨そぼふる
とあるから、弥彦はかつて伊夜比古と呼ばれていたかもしれない。しかし、玉砂利の清々しい厳かな社はたんに拝殿をなすにすぎず、神体は弥彦山そのものであるという。わたしには弥彦山が伊夜比古と呼ばれるとき、それがすでに神として、仰いでわたしたちの見得る山そのものの姿を越えた、なにものかを意味するような思いがするのである」
旅館の部屋から眺めていた一の鳥居の前までやってくる。彌彦神社については、神社編になる『彌彦神社』が出ていて、いろいろ参考になる。たとえばこの一の鳥居はよく見ると親柱と礎石の間に隙間があり、わずかだが浮いているように見える。そのことについて同書では以下のように説明されている。
「一ノ鳥居は木製で対候性塗。親柱の根元は地に着かず、二寸(六㌢)程度の間隔があり、芯の直径十cm程度がくぼみ土台石の凸を受け穴に収めている。また稚児柱は固定されており、地震などのゆれには稚児柱との渡し木の反り等で元の位置に戻るようになっている」
御手洗川(祓川)にかかる石橋と参道。この石橋の上流に神橋「玉の橋」がかかっている。同書では神橋について以下のように説明されている。
「明治四十五年の弥彦大火で、門前町を始め、正面鳥居からご本殿まですべて炎上し、境内建築物全部が失われた。しかし、明治二十九年、改築された、参道中ほどの神橋「玉の橋」だけが炎上の難を免れた。
以後、境内整備のたびごとに移設され、長らく神宮外苑弥彦公園にあったが、唯一の明治遺構を後世に伝えるべく、境内御手洗川護岸改修と御遷座七十年記念にあわせ境内の現位置に移築し直したものである」
石橋の脇には両岸から水辺に下りる石段がある。昔は参詣者が水辺に下りて身を清めて向こう岸に上がったと考えられる。夏場だからなのか水量が少ないのが残念だった。
参道の途中、山側に入る御神廟参詣道。弥彦山山頂への登拝の起点になっている。われわれはこの道を行かなかったが、鳥居の先が遥拝所にもなっているようだ。弥彦山は神社の拝殿の背後というよりも、少し左手にそびえているため、この位置の方が山頂を拝みやすいのだろう。
手水舎、絵馬殿、宝物殿、神木などに囲まれた広場で参道は左に曲がり、その先に二の鳥居がある。鳥居をくぐったすぐ右手にあるのが神馬舎。
二の鳥居から随神門に至る長い参道の右手には、舞殿や摂末社に至る参道があるが、そちらには山頂まで行ったあとで参ることにする。
随神門から見る拝殿。
随神門の前の狛犬、阿形。他ではなかなか見かけない伸び上がりの姿をしている。
狛犬、吽形。
風格のある堂々とした拝殿。すでに書いたように、弥彦山は拝殿の背後よりも左手にあり、写真ではガスがかかって見ることができない。拝殿で参詣したあと、ロープウェイで山頂に向かう。神社編の『彌彦神社』では、弥彦山が以下のように表現されている。
「弥彦山が、文化の開けぬ古代から神の鎮座する霊山として、あるいは神そのものの御姿として畏敬され、朝な夕な仰ぎ拝まれてきたことは、古代の宗教生活に山嶽信仰という自然崇拝の一形態があった事実から推して、しごく当然と認められる事柄である。
それは春秋二度の大祭が、鎮魂祭の名によって変わることなく厳重に伝えられている山嶽信仰特有の顕著な事例や、公けには御神廟とよばれていながら、口碑には「おつか」といわれ、現代の用法では廟と塚とほとんど混同しているが、古代語では厳密に区別されていて、塚は祭壇を意味するものであったことなどから推して明白である。
弥彦山にたいするこうした思想や信仰はその後にいたっても変革されることはなく、万葉集にも弥彦山を伊夜彦之神と解しており、徳川幕府の歴代から寄せられた朱印状にも「彌彦神社」ではなくて「彌彦山明神」と記されている」
彌彦神社の祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。天照大御神の曾孫で、神武天皇御東征に功績をたてたあと、越の国開拓の命をうけ、漁業・製塩・農耕・酒造等越後産業文化の礎を築いたという。
神橋「玉の橋」のところで触れたように、社殿も明治45年の弥彦大火で焼失したが、大正5年に再建された。平成27年は本殿が現在の地に再建されてから百年にあたり、様々な御遷座百年の行事が行われている。
拝殿前から向かって左手にある道を進むとロープウェイ山麓駅に向かうバスの乗り場がある。
シャトルバスで山麓駅まで行き、ロープウェイに乗り込む。山麓駅から山頂駅までの約1000mを5分間で結んでいる。時間があれば自分の足で登りたいところだったが、今回は諦める。
好天であれば眼下に越後平野とその奥に連なる越後の山々が広がるはずだったが、上昇するほどにガスが濃くなっていく。
山頂駅に到着。周辺には、展望レストラン、パノラマタワー、クライミングカーなどがある。山頂駅といってもまだ頂上ではなく、御神廟(奥宮)がある頂上までは、展望レストランの脇を抜けて15分ほど歩く。
御神廟に向かって歩き出すが、周囲にはガスがたちこめ、展望がきかない。冒頭で取り上げた森敦の「かての花」では、山頂の体験が以下のように表現されている。
「山頂からの眺望がまたすばらしい。杉の巨木にかこまれた神社裏のロープウェイで沢を登ると、芝草の刈り込まれたゆるやかな山の背に、近代的な展望台が建っている。すでに小公園の観を呈しているばかりか、海陸にわたる全円の風光をほしいままにすることができる。わたしのためにしばしの住まいを見つけてくれた若い友人とともに、初めてここを訪れたのは秋であったが、なにかもう吹き荒れる冬の季節風の気配があった。信越の山々はすでに見えず、三条市を貫いた五十嵐川を入れながら、こなたに燕市、吉田町を配した信濃川の蛇行する蒲原平野には、雲間を漏れる光が走り、眼下の日本海には海を濁らせて寄せて来る一面の荒波が、はるかな潮騒をとどろかせている。佐渡は人家の白壁が見えるほど間近に浮かんで、いまにも打ち寄せられて来そうだが、ハッとして目を凝らすと荒波が停止して、かえって潮けむる沖へと動いてでもいくようだ」
展望レストランを過ぎ、しばらく行くと、彌彦神社からの登山道(表参道)と合流する。下から登ってきた登山者の姿を見かけた。さらに木立に囲まれた道を進むと、御神廟の鳥居が現われる。
弥彦山山頂(634m)にある御神廟(奥宮)。先述した『彌彦神社』には、御神廟の前で神官たちが神廟祭を行う様子を収めた写真が掲載されている。
御神廟の周囲は広々としていて、ベンチなどもある。天気がよければ登山者で賑わっているに違いない。
山頂に備えられた弥彦山頂大観図。北東の角田山、多宝山、鳥海山、月山、東の二王子岳、五頭山、菅名岳、白山、南東の守門岳、尾瀬、南の苗場山、妙高山、白馬岳まで一望できるようだ。
御神廟に向かう道の途中にあった弥彦山・多宝山・国上山トレッキングルートの案内板にも非常に興味をそそられた。中部北陸8県にまたがる旧街道を中心とした中部北陸自然歩道が弥彦山にも繋がっていて、その自然歩道を中心に様々なコースが紹介されている。「その十」で少し触れた岩室温泉や多宝山から良寛ゆかりの国上山、日本海側から弥彦山に登る裏参道までかなり詳細なマップになっている。
「かての花」の最後で主人公が山を越えて日本海に至る場面が印象に残っているので、いずれ日本海に至る道を歩いてみたい。
(新潟の温泉・霊場巡り その十二につづく)
《参照/引用文献》
● 『月山・鳥海山』森敦(文春文庫、1979年)
● 『彌彦神社』彌彦神社編(学生社、2003年)