2012年5月3日(木):曇りのち雨:大山寺阿弥陀堂→三法荒神跡→利寿権現跡→利生水→氷室→釈迦堂跡→金門
■(伯耆大山に登る その二からのつづき)さらに僧兵コースをたどることに。阿弥陀堂からは、お堂の左にある道を進む。
するとすぐ右手にあらわれるのが、「三法荒神跡」。説明版には「仏教では、「仏」「法」「僧」を三宝と言い、その三宝を守る神が「荒神」である。「荒神」は怒りの表情をしており、火を好むと言われ、かまどの神としても祀られていた」とある。いまでは石の鳥居と小さな石段だけが残されている。
三宝荒神跡を過ぎると、明日歩く夏山登山道にぶつかる。そのことには歴史的な意味があるようだ。『日本の名山19 大山』(博品社刊)に収められた五来重の「伯耆大山の地蔵信仰と如法経」の冒頭には、以下のように書かれている。
「いまでこそハイキングの山になりましたが、みんなが自由に登れるようになったのは明治維新以後のことで、それまでの伯耆大山は一般の人の登れない山だったのです」
「これ(阿弥陀堂)は平安時代の様式を遺した鎌倉時代の建物で、大山寺で唯一の中世以前の建物ですが、ここの横に番人がいて、それから上へは登らせなかったのです」
霧雨のなか山を下りてきた数人の登山者とすれ違った。僧兵コースは、この登山道をすこし下り、右の道を行く。道に入るとすぐに、残雪のため通行止めと書かれた立て札に出くわした。この冬のは例年よりも雪が多かったので、通行止めになっていた時期もあるはずだが、もう大山の上の方でも雪が残っている場所はかなり減っているため、これは古い立て札と判断し、先に進むことにした。
すると間もなく「利寿権現跡」に着く。説明板には「大山寺が隆盛を極めた約五百年の昔、この地に利寿権現を祀ったお堂があった」とある。さらに三浦秀宥の論考「伯耆大山縁起と諸伝承」(『仏教民俗学大系7:寺と地域社会』所収)から、利寿権現に言及した部分を引用しておこう。「大智明権現は、霊像権現、利寿権現とともに大山三所権現と呼ばれて地主神的な性格があった。しかし大山信仰を代表し、その声望を高からしめたのは大智明権現の名声であった」
こちらは、阿弥陀堂までの道とは違い、それなりに山深く、遺構も礎石の一部などわずかであり、立て札でもないかぎり、そこになにかがあったことも気づかずに通り過ぎてしまいそうだ。五百年前にはまったく違った風景が広がっていたことになる。
利寿権現跡を過ぎると、行者谷にさしかかるので、左側が切れ落ち、道も細くなる。谷に沿って大きく曲がる道を通り過ぎると、利生水に出る。
ここは平坦なスペースになっていて、東屋もたっている。この天候だけに、傘を閉じて休憩できるのはありがたい。ちょうど昼過ぎなので、サンライズ出雲のために用意した弁当の残りを平らげることに。多目に準備してきて正解だった。
腹が落ち着いたところで、この場所の隅にある「利生水」を見学する。説明板には以下のようにある。
「昔行基菩薩が当山に錫止の時、文殊の法を修しようとされたが、高燥の地なるがために閼伽(あか)水がないので水輪の法を修せられた処、忽ち浄水が湧き出たと伝えられている。
後生この水を文殊利生に擬えて「利生水」と称えた。
里人はこの水を汲んで女の毛髪の醜いのに付ければ美麗になると称して今でも参拝する人も多い。」
本来なら水が湧き出しているのかもしれないが、いまは枯葉で塞がれていて判然としなかった。石造りの遺構のわきには、利生地蔵がたっている。
利生水の先もまだ細い道がつづくが、一ヶ所だけ残雪が道にせり出しているところがあった。危険というほどではなかったが、道がえぐれている部分は雪の上を通らなければならない。残雪がもっと多ければ難儀したかもしれない。
しばらく進み、道が広くなると石造りの氷室が現れる。以下、説明板からの引用。
「昔、この地方は養蚕が随分盛んであった。この氷室は、ここに降った雪を踏み固め、その中に蚕の種を保存した所で、春に蚕種を取り出して、残った氷状の雪は馬に乗せ米子町内に運ばれ大山氷として珍重された。」
室にはこの冬の雪が残っている。実際に使われていた時代には、周囲が樹木などで陽を遮るようになっていたのかもしれない。
氷室からしばらく行くと、みゆき地蔵がたつ釈迦堂跡。説明板には以下のように書かれている。
「約五百年の昔、この地に大山寺三塔(大日、阿弥陀、釈迦)の一つとして建立された、その規模の壮大なことは一城郭を思わせ、今でもその礎石が残っているが、度々の災害で他に移された。」
この説明だけでは物足りないので、三浦秀宥の論考からも引用しておく。
「大山寺は古くから「三院四十二坊」と称された。三院とは中門院、南光院、西明院の三院であり、それぞれに所属する一四坊の諸院があって、三院にそれぞれの本堂があった。中門院は大日堂、南光院は釈迦堂、西明院は阿弥陀堂であった。三院の名称は承安二年(一一七二)十一月鋳造銘の見られる地蔵像の鉄鋳厨子にすでに見られる」
さらに進むと金剛童子跡や大納言杉跡があり、それらを過ぎると水音とともに木立の間から南光河原が見えてくる。「大山ぶらりまっぷ」では、南光河原が以下のように説明されている。
「大山寺隆盛の頃、南光院谷派僧坊がありましたが、金門を切り開いて僧坊は両岸に移転し、河原となったとの言い伝えも残されています。」
釈迦堂跡といい、僧坊といい、いまでは想像がつかないが、この場所は相当に栄えていたらしい。河原に下りて右手に目をやると、金門が視界に飛び込んできた。先述した『大山 日本の名山19』に収められた宮家準の「大山の歴史と信仰」では、金門をめぐって以下のような記述がある(ちなみにこの説明はわれわれとは逆ルートをたどっているため、われわれはこれから大山寺本堂に向かうことになる)。
「(大山寺)本堂右手の坂を下ると、南光院谷に出る。正面にそびえる大山北壁から落ちた流れが、この谷にそそいでいる。谷にそって少し進むと、両脇から絶壁がせまって門のようになった所にくる。金門といわれる霊地で、この奥を賽の河原、地獄谷という。絶壁に刻まれた地蔵の浮彫や河原に積まれた小石が注意をひく。」
「また大山では地蔵・文殊・観音がまつられているが、これらの仏は山上の池中の多宝塔に出現したものを、三所権現としてまつったことにはじまるとされている。さらに三所権現の神勅にもとづいて、地蔵の化身の金剛鳥が巌戸を開いて金門を作ったのが、南光院谷奥の金門で、この川上から流れてきた阿弥陀如来をまつったのが阿弥陀堂であるとの伝説もある。現在も金門の奥が賽の河原、地獄谷と呼ばれているのは、すでに鎌倉時代からこの場所を他界とする信仰があってのことかも知れない。」
さらに、先に引用した三浦秀宥の論考にも金門について以下のような記述がある。「南光河原を大山寺本堂の裏手に当たる付近まで登ると両側が絶壁の断崖になっている。そこが金門(禁門)と呼ばれる聖地で修験の行場であった所である。金門の上に続く所がサイの河原(地蔵河原)である。ここを冥途との境界と伝えて、亡霊の供養のために小石を積みに来る人が今もあり、この河原は地蔵の山としての大山の信仰を支えた重要な場所である」
金門は死者の世界と生者の世界の境界になっている。
(伯耆大山に登る その四につづく)