2015年8月11日(火):曇り:新柳本店―(徒歩)→旧新発田藩下屋敷庭園・清水園→旧新発田藩・足軽長屋→広沢山宝光寺
■ (新潟の温泉・霊場巡り その三のつづき)新柳本店でひと息つき、いよいよ清水園を散策することに。清水園は旧新発田藩下屋敷で、そのあたり一体が清水谷と呼ばれていたことから下屋敷は清水谷御殿と呼ばれたとのこと。もともとは曹洞宗の高徳寺の境内地だったが、三代藩主の時代の万治元年(1658)に、高徳寺を近郊に移し、御用地として下屋敷を造営した。
清水園の栞には、具体的なことが以下のように説明されている。
「約四千六百坪(約一万五千二百平方メートル)の敷地に御殿が建立されたのは、棟札によれば寛文六年(1666)四月で、その後新発田城の炎上などがあり、やがて四代重雄の時、幕府の茶道方であった縣宗知を招いて庭園の築造が行なわれ、完成を見たのは元禄年間の頃である」
受付で入場料(大人700円)を払い、大門(総門)をくぐる。下の関連リンクに入れた清水園のサイトによれば、もともとは新発田藩家老、さらには藩知政庁にあったと言われる茅葺きの立派な門である。
道の両側の松やカエデ、苔などを眺めながら真っ直ぐに進み、中門をくぐる。同サイトによれば、この門は、藤村庸軒(千宗旦の直弟子、宗旦四天王の一人)が淀見の席の入口に建てたもので、京都から移築されたという。
茶室・桐庵の脇を通り、大きな鯉が群れる小川を渡ると清水谷御殿と呼ばれた書院の前に出る。書院は栞で以下のように説明されている。
「清水谷御殿といわれた建物は寄棟造杮葺平屋建、八十余坪。二畳の上段の間を備えた二間続きの京間座敷は、池に面して広く開け、かぎの手につづく二間床のある十五畳の部屋は、かつて能が演じられたと伝えられ、床板には春慶塗のあとが見られる。
極めて簡素な数奇屋風のこの建物は、幕府に対する政治的配慮もされたという当時の下屋敷の面影を偲ぶことができる」
「その一」で訪れた新発田城では、事実上の天守に相当する櫓を、幕府や親藩に遠慮して天守とは呼ばず、三階櫓と呼んだという話があった。外様大名でありながら移封がなく、12代、274年にわたって新発田にとどまることができたのは、こうした配慮があったからなのか。
書院に上がり、二畳の上段の間や庭園を眺める。ちょうどボランティアの人がいて、いろいろ説明してくれた。
奥の座敷に移動し、障子の間から裏手の庭を眺める。こちらも、木が色づいたりしていてなかなか風情がある。
同じく裏手の庭の眺め。目立たないところにも意匠が施されている。
庭園については栞で以下のように説明されている。
「遠州流の茶人で、幕府の茶道方であった宗知は、四度も新発田を訪れたと古記録は伝えている。
近江八景をとり入れた京風の庭の中央に、草書体の「水」の字をえがいた大池泉を配した回遊式庭園は、春には萌える緑、初夏にはあやめ、やがて秋の紅葉、冬には静寂の白雪と、四季折々にその装いを変えて、十万石大名の下屋敷にふさわしく越後路から東北にかけて他に比を見ない名園といわれる」
庭園には五つの茶室が点在している。書院から石橋を渡ると、先ほど脇を通った茶室・桐庵(きりあん)がある。そこからまた別の石橋を渡ると茶室・夕佳亭の裏手になる。この茶室は池泉にせり出しているので、対岸の方から見ないと雰囲気がつかめない。
夕佳亭の先には荒磯の意匠があり、飛び石をたどった西端に岬灯籠が置かれている。ここからは池泉全体が見渡せる。
荒磯から池泉の南東に位置する岩島を眺める。
荒磯から中央に大岩を配したユニークな石橋を渡って、石橋がかかる岩島の前までやってくる。右手に荒磯の岬灯籠が見える。
池泉の南に位置する小滝と石組。この上流にも小さな石橋がかかっている。
池泉の南西に位置する長い石橋。その上からは南西部の岩島や荒磯が眺められる。
石橋の先で色づいたカエデを目にする。
南西の岩島の手前にある腰掛待合。名前の通り腰掛けて庭園を眺めることができる。
腰掛待合のなかから眺めた庭園。
腰掛待合から南西の岩島を過ぎると再び茶室が見えてくる。翠濤庵・同仁斎・松月亭という三つの茶室が連なっている。
松月亭の屋根とカエデ。
茶室の前から松が見事な北西部の中島とその向こうの書院を眺める。
石橋がかかる北西の中島と対岸の茶室・夕佳亭を眺める。これで池泉をほぼ一周したことになる。変化に富む様々な風景を楽しめる庭園だった。
清水園の散策はまだ終わりではない。入場料には、旧新発田藩の足軽長屋の見学も含まれている。栞には以下のような説明がある。
「清水園に沿って流れる新発田川をへだてた路すじに、藩政時代の足軽が居住した茅葺平屋建の八軒長屋がある。
かつてこの城下には、会津街道に向かって幾棟かの足軽長屋があったが、現存しているのは、天保十三年(1842)の棟札がみられるこの一棟だけで、往時は「北長屋」と称し、全国的にも例をみない遺構として、昭和四十四年、国指定の重要文化財になっている」
清水園から、本日の宿がある月岡温泉に行くバスに乗るために新発田駅に向かうが、同じ道を戻るのではなく、寺町通りを経由して目抜き通りに出る。寺町通りで宝光寺に寄りたかったからだ。
宝光寺は新発田藩主溝口家の菩提寺で、『新潟県の歴史散歩』(山川出版社)では以下のように説明されている。
「新発田藩初代藩主溝口秀勝が加賀大聖寺(現、石川県加賀市)で開基した大麟寺が移封に従ってきたもので、1612(慶長17)年頃、現在地に建立された。城下最大の敷地を持ち、かつては約8416坪の寺域を誇った。文政年間(1818~30)の大火に類焼し、本堂・庫裏などすべてを焼失したが、1845(弘化2)年に再建された山門は、均整のとれた重厚な構えの入母屋造重層櫓門である」
この県内随一ともいわれる山門が見たかったのだ。道路に面した宝光寺の総門をくぐるとその山門が建っている。意匠が凝らされ、見応えがある山門だった。
(新潟の温泉・霊場巡り その五につづく)