2013年7月13日(土):晴れときどき曇り:水澤観世音→飯綱大権現→十二神将石仏→水沢山(浅間山)山頂→水澤観世音
■(夏の伊香保・榛名 その一からのつづき)坂東三十三ヵ所の第十六番札所・水澤寺(水澤観世音)に参詣したあとで、今度は寺院の裏手にそびえる水沢山(地図では浅間山となっているが同じ山である)に登る。その一で、水沢バス停付近から見えていたあの山だ。
本堂(観音堂)に向かって左手、水子地蔵尊の背後に、登山道に通じる道がある。鳥居をくぐって急な石段を登っていくところは、丹沢・大山の表参道を思い出させる。大山の場合は、阿夫利神社の下社拝殿に向かって左手、片開きの登拝門をくぐってすさまじく急な石段を登っていく。
鳥居をくぐるときに、扁額に「飯綱大権現」と刻まれているのに気づいて、この霊場に対する興味が増した。水澤寺も飯綱大権現を勧請し、この地域にも飯綱信仰が根づいていたことになる。
飯綱信仰の起源は、長野市の北西に位置する飯縄山にあり、そこから各地に伝播していった。たとえば、筆者も参詣したことのある高尾山薬王院。その本尊は飯縄大権現だ。高尾山薬王院 公式ホームページでは本尊の由来が以下のように説明されている。「行基菩薩開山以来「薬師如来」を本尊として奉祀してきた高尾山は、俊源大徳の祈請によって「飯縄大権現」を勧請し、爾来これを本尊として奉安している」
それから、戦国時代に覇を競った上杉謙信と武田信玄も飯綱大権現を奉祀していた。謙信の兜の前立が飯綱権現の尊像であったことは比較的よく知られている。
筆者は2009年のGWに、善光寺のご開帳に合わせて飯縄山に登った。その登山道には、第一の不動明王から第十三の虚空蔵菩薩まで十三体の石仏が鎮座し、信仰の山の痕跡をとどめている。但し、かつて多くの信仰を集め、それが各地に伝播した歴史を確認するのは難しい。高橋千劔破の『名山の文化史』の飯縄山の頁には、以下のような記述がある。
「飯縄山の頂上近くに、全国の飯縄神社の総社と伝える通称飯綱神社(皇足穂命神社)の奥社がある。里宮は、山麓の長野市富田(旧荒安村)にある。いずれも近世を迎えるまでは飯綱(縄)大明神、また飯綱(縄)大権現とも称されていた。皇足穂命神社と名を改めたのは明治四年(一八七一)のことである。神仏分離令によって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、修験道が廃されて各地の社寺が右往左往していたときだ。ちなみに、飯縄山は修験の山であったにも拘わらずその歴史はほとんど不明で、深くつながっていたはずの寺院(別当寺・神宮寺など)の存在も定かではない」
飯綱信仰が私たちの想像力を刺激するのは、「飯綱の法」によるところが大きい。同書では以下のように説明されている。「飯綱修験は飯綱修法すなわち飯綱の法を主体とするもので、法を行う修験者を飯綱使いといった。「大井文書」に記された「飯縄平座秘法」によれば、その法とは、飯綱大明神が変幻自在の天狗となって、あるいは六地蔵に姿を変えて諸国をめぐり、衆生を救済し魔界を封じることを本旨とするもの、という」
また先に触れた高尾山薬王院のHPでは以下のように説明されている。「「飯縄法」とは、管狐と呼ばれる鼠ほどの小動物を飯綱山から得て、長さ四、五寸の管に入れて養い、常に懐中して、この小動物の霊能を用いて術を行ったという。伝説では、この管狐は著しい霊能力を持ち、変幻出没自在で、予言をなし、人になつき、飼い主には非常な利益をもたらすものと信じられ、恐れられた」
そんな特異な法であるだけに、権現像の造形も異色だ。全体から受ける印象は不動明王に近いが、顔は烏天狗で、羽を持ち、狐に乗っている。水澤寺の権現像は公式サイトの飯縄大権現のページで写真が見られるが、顔については烏天狗ではなく不動明王に見える。ちなみに、写真の説明では、大権現の本地は不動明王だという。
急な石段のうえに建つ大権現の社殿はかなり新しく見える。HPの説明によれば、もとは江戸時代のものだったが、老朽化が進んだため、平成6年に新しく建て直したという。そばには古い石の祠が並んでいる。お参りをすませ、道標にしたがって樹林帯に入っていく。
まともに山歩きをするのは、昨年9月の乾徳山(乾徳山に登る その一)以来で、気持ちはわくわくしているのに、体はどんどん重くなっていく。汗が噴き出すばかりで、ペースがまったく上がらない。この時期の低山がきついことは地元の丹沢で何度も思い知らされているが、どうもブランクや気温のせいだけではないようだ。パートナーはきついと言いつつ、それなりのペースで進んでいる。この2週間ばかり、ひたすら原稿を書きつづけて、自分が思っている以上に疲労が蓄積していたらしい。
このままだらだら登っていても時間をロスするばかりなので、ザックをデポすることに。これでだいぶ楽になり、ペースも少しは上がるようになった。樹林帯の道を登りつづけ、なんとか山の肩にたどり着く。山頂へ0.4kmという道標がたつこの場所は、疲労困憊で登ってきた人間には抜群の効果を発揮する。
東側の展望が一気に開ける。気温が高いこともあって少し霞んではいるが、渋川や前橋の市街地、その向こうに赤城山を眺めることができる。
そして、路傍に並ぶ石仏と花菖蒲やシモツケなどの花々が心を和ませてくれる。但し、その像をよく見れば甲冑をつけた武将の姿をしている。ひとつだけ真新しい石仏に「因陀羅大将」と刻まれていることから、この石仏群が十二神将であることがわかる。他の古い石仏のなかにも「毘羯羅」と読み取れるものがあり、すべて十二神将の名が刻まれていたのだろう。
この山歩きは、飯綱大権現から飯縄山を思い出すところから始まったが、この石仏群もやはり飯縄山を思い出させる。そして、その武神たちを取り巻くように花が咲いているのは、ここだけ特に日当たりがよいためなのか、神仏に供えるために植えられたものなのか。
山の肩から尾根をたどって頂上に向かう。すぐに南側の展望も開けてくる。その先に岩場があり、それを越えると頂上になる。
標高1194mの水沢山は決して高い山ではないが、周囲に視界を遮る山がないため、ほぼ360度のパノラマを楽しめる。東側には先ほど山の肩からも眺めた赤城山、北側には十二ヶ岳や子持山、そして西側には榛名山塊の相馬山、二ツ岳、榛名富士が見える。山頂に備えられた山座同定盤によれば、視界がよいときには、富士山、筑波山、男体山、八ヶ岳などまで見えるようだ。
われわれの今晩の宿は伊香保温泉だが、この山頂から西に向かい、直接、伊香保温泉に下れる道もある。そのコースを行けば、バスのお世話にならずにすむが、そこそこ距離があるし、仕事に追われてしっかり調べる時間がなかった。今日は暗くなる前に伊香保温泉に着いて、夕食の前に石段街を少し散策するつもりであり、万が一にも迷って暗くなってから着くことだけは避けたいところで、最初からそちらのコースを行く気はなかった。山頂から伊香保温泉に下る予定だったら、いくら体調が芳しくなくてもザックをあっさりデポするわけにはいかなかっただろう。
ここで話は少しそれるが、明治・大正期の詩人で、伊香保の近くで生まれ育った山村暮鳥は「伊香保とはどんなところか」という随筆のなかで以下のように書いている。
「いま伊香保について何か書くように頼まれ、自分の少年時代などを回想してみて、自分はしみじみと郷国に対する情愛を感ずる。自分が転々流離の月給取生活にはいつてから既に十年、もうそんなにあの肌にいいたつぷりした温泉にも漬からない。けれどその以前は蕨摘みや茸狩のついで、学校の夏休みには勿論、大雪の中を友といのちがけで遊びに行つたこともある。したがつてそこへの道ならどんな小さな実際にはあるかないかさえ解らない野兎の足痕のやうな径すら承知してゐる程だ。磨臼峠の嶮を越えるガラメキからの道、榛名神社を参詣した人が疲れた足を浸してみてその冷たさにびつくりする湖畔からの道、いまは電車の渋川道、裏山の二ツ嶽から獵夫のたどる細径、それから自分の一ばん好きなのは水沢からの道である」(『群馬文学全集 第四巻 山村暮鳥』(群馬県立土屋文明記念文学館)所収)
但し、水沢からの道といっても、水沢山を越えるわけではない。山の南側、「九十九谿の裾野を上つたり下つたりする」道だ。そしてその先では、おそらく水沢山の山頂から西に下る道と合流し、伊香保温泉に至るものと思われる。今度こちらに来るときには、水澤寺から群馬の名瀑といわれる船尾滝とその九十九谷を訪ねてみたいと思う。
ちなみに暮鳥は以下のようなことも書いている。「遠方から僅かにきこえる船生の瀑布。その上より南へ走つて起伏する九十九谷。将門はその反逆にあたつて此処より雲烟模糊たる大平野をながめて微笑を禁ずることが出来なかった。何という豊饒無限な領土であらう。今ではそこに高崎、前橋の漁両市街をはじめ千百の町々村々。彼は此処に関東の高野霊場を計画して果たさなかつたとの古老の言葉はほんとか」
水沢山の山頂は気持ちよく、しかも貸切状態だったのでゆっくりした。16:07のバスを逃したらタクシーを呼べばいいだろうという気になっていた。展望を堪能して道を引き返し、樹林帯に入ったあたりから雨がぱらつきだした。デポしたザックを回収し、水澤寺の境内に戻ったときには16:30をまわっていた。境内に人の姿はなく、観音堂にお経が響いていた。雨はやんでいたが、また降りだすとしんどいので、すぐにタクシーを呼んだ。タクシーに乗り込むと、また雨がぱらつきだした。
(夏の伊香保・榛名 その三につづく)
[付記]
※『榛名と伊香保』(みやま文庫7、1962)に収められた今井善一郎の論考「山の神々」には、水沢山について以下のような記述がある。
「榛名東麓の村々には盆に水沢山に登山する習慣があった。八月七日から一週間、村の人達は川の流れを堰止めて毎日水垢離をとる。十三日の夕刻、手に手に竹ボラをもって、ボウボウと吹き鳴らしながら水沢山へ登るのであった。水沢の観音堂の左手から上って、帰りには右側へ戻って来る。登りの道はずい分と峻しかった。この行事は論なく盆の祖霊迎えの古態と解される。水沢山(浅間山、仙元山)も一つの祖霊の集合所であったのであろう。竹ボラというのは太い竹の一節を残した穴一つの笛で、大きな音響がするという。
今はこの盆の登山は衰えて、その代わりに十二月三十一日の夜登頂して元日の来迎を拝む風習が盛んになっている。これは渋川高校の生徒が始めた全く新しい行事であるが。夜を徹して登山の火が山側に美しく動いている」(2013年9月13日追記)