ヤビツ峠から鳥尾山、行者ヶ岳へ―2005秋の丹沢表尾根縦走 その一 | 楽土慢遊

ヤビツ峠から鳥尾山、行者ヶ岳へ―2005秋の丹沢表尾根縦走 その一

所在地:
[ヤビツ峠] 神奈川県秦野市寺山地内
交 通:
小田急線秦野駅からヤビツ峠行きバス約45分

2005年9月18日(日):晴れ:横浜駅―(相鉄線)→海老名駅―(小田急線)→秦野駅―(ヤビツ峠行きバス)→ヤビツ峠→二ノ塔→三ノ塔→三ノ塔地蔵菩薩→鳥尾山荘→行者ヶ岳

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■ 東丹沢の主峰・塔ノ岳から南東に長く伸びる丹沢表尾根は展望が素晴らしく、人気のコースになっている。今回は、ヤビツ峠(バスによっては蓑毛)から、二ノ塔、三ノ塔、鳥尾山、行者ヶ岳、新大日、木ノ又大日といったピークを越えて塔ノ岳に至り、南に伸びる大倉尾根を下る。

そしてコースを歩きつつ、歴史にも触れられればと思う。山岸猛男の『丹沢 尊仏山荘物語』(山と渓谷社)や城川隆生の『丹沢の行者道を歩く』(白山書房)に記されているように、丹沢は古くから修験の山で、その尾根道は修験者たちによって拓かれた。この丹沢表尾根は、修験道の入峯修行の場となっていた。

相鉄線と小田急線を乗り継いで秦野駅で下車。ヤビツ峠行きのバスに乗り、ヤビツ峠に到着。陽射しはまだ強いが、道路わきで目につくススキの穂が秋の気配を感じさせる。

丹沢表尾根を歩くのは二度目だが、最初のときは写真を撮らなかったので、記録としてはこれが最初になる。前回は山の知識も経験もゼロに近かったので、苦しい思いをしたが、6月に熊野古道を歩いて小雲取、大雲取を越え、先月には出羽三山に登っているので、山にもだいぶ慣れてきた。

ヤビツ峠からは、丹沢表尾根方面の道標にしたがってしばらく車道を下っていく。その車道からは、重なる尾根の向こうに丹沢三峰が見えている。

車道の先に富士見山荘が見えてくる。富士見山荘は登山道への分岐の目印にもなるが、いまは取り壊されて駐車場になっているらしい。

富士見山荘の前で道標にしたがって左折し、菩提峠への道に入る。

しばらく進むと右側に登山道を示す道標があり、丸太階段を登っていく。その先はガレた急斜面になり、一度車道に出る。その車道を横切って、再び登山道に入り、二ノ塔につづく道を登っていく。

しばらく登るとすぐに東側の展望が開ける。その東には大山がそびえているので、振り向けば大山が眺められる。ピラミダルな山容が美しい。

この丹沢表尾根コースのテキストでは、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)にも触れることになるので、その前に大山と役小角の伝承も頭に入れておきたい。宇都宮泰長、鈴木隆良『大山不動と日向薬師 (1981年)』(鵬和出版、1981年)では以下のように説明されている。

「仏教伝来による大山の開山は遠く天平勝宝七年(七五五)五月、華厳宗の良弁僧正の入山によるものとされているが、さらに古く役の小角の入山が口碑として伝えられている。
 小角は大和の葛城山で修行し「われついに孔雀明王の咒法を感得せり」と、呪法と薬草百八種による薬法を駆使して世人の信仰を集め、修験道の開祖と称されている行者である。小角は世を惑わす妖言をしたという理由で、文武三年(六九九)に伊豆の島に流されるという事件があったことから、その頃相模大山に入山したと想定しても不思議ではない。何しろ小角をめぐる伝説は各地にあり、吉野山から伯耆大山、九州の霊山英彦山におよび、飛行自在に活躍したと伝えられている。
 大山の隣峰、八菅山の七社権現には小角の遺品と伝えられる霊判、法鉢、錫杖が宝物として秘蔵され、大山を含む三十五日間の入峰修行の記録にも「これ役小角よりの旧例と云々」とある」

ときどき振り返って大山を眺めながら斜面を登って二ノ塔に到着。二ノ塔付近からはさらに展望が開け、富士山に、秦野市街やその向こうの相模湾も眺められるようになる。今日の富士山は上の方が雲に隠れていた。

二ノ塔の先でしばらく富士山や秦野市街を眺め、次のピークである三ノ塔を目指して丸太階段を登っていく。

登山道のわきにはアザミの花が目につく。

マムシグサが鮮やかな赤い実をつけていた。丹沢ではこの時期によく見かける。

三ノ塔に到着。高度が上がったのでさらに展望がよくなる。眼下に見える鳥尾山から塔ノ岳に至る尾根の展望が素晴らしい。ここで山岳信仰の歴史を少し振り返っておきたい。冒頭にも書いたように、丹沢表尾根も修験者たちの行者道になっていた。

城川隆生の『丹沢の行者道を歩く』(白山書房)によれば、日向山伏の峰入り修行では、まず大山に登り、山頂から藤熊川の谷に下り、表尾根へと向かった。日向山伏の行者道の概略を伝える史料『峰中記略控』では、その表尾根の道のことが以下のように記されているという。

「ここ(諸戸のあたり?)を出発して鳥ヶ尾という山に登り三里ほどである。ここまで鳥二羽に送られて来るので鳥ヶ尾である。この山の上に蔵王権現の石仏がある。ここに札を納め、勤行・祓いを行う。そこから向こうの峰に移り篠竹の中をしばらく行くと尊仏という所に出る。ここで札を納め祓いをし、一宿する。」

そして、引用のあとに著者の解釈が以下のようにつづく。

「『鳥ヶ尾』は鳥尾山の山名の由来となっている。しかしここで言う『鳥ヶ尾』は現在の三ノ塔(1205㍍)を指していると考えた方が自然である。三ノ塔の北東に延びる尾根から三ノ塔の北側斜面に出ると、『向こうの峰』鳥尾山(1136㍍)が視界の正面に飛び込んでくる。
 日向の山伏はこの日、翌日から始まる厳しい抖撤行に備えて水行で身を清め、これから向かう聖地への遥拝を行う必要があった。「尊仏」とは表尾根の中でも重要な聖地 塔ノ岳の別名でもある。
 鳥尾山から水無川の谷に向かって尾根をしばらく下ると、かつてはヒゴノ沢へ降りる道が通じていた塔ノ岳の遥拝地がある。現在は植林に囲まれて遥拝もままならず塚と馬頭観音がひっそりと立っている」

かつての行者道と今の表尾根コースは同じではないが、このような風景のなかで修行を行っていたと思うと感慨深いものがある。もちろん当時の道は手つかずの険しい自然のなかにあって、そこに漂う空気や受ける印象はまったく違っていたはずではあるが。

三ノ塔からの展望を堪能したあとは、眼下に見え、引用にも出てきた鳥尾山に向かう。まず平坦な道を進み、尾根を見守る地蔵菩薩の前で急な丸太階段に変わる。

登山道のわき、急な斜面に咲くホトトギス。

急な丸太階段の先には岩場がある。

鞍部から鳥尾山を眺める。ピークの手前には笹原があり、えぐれた道を笹のトンネルをくぐるようにして通り抜ける。

鳥尾山に到着。山頂には三角屋根が印象的な鳥尾山荘が建っている。

鳥尾山から今度は行者ヶ岳に向かう。行者ヶ岳というのは修験者によって切り拓かれたことを物語る山名だが、ここで予告した役小角(役行者)のことに触れたい。奥野幸道の『丹沢今昔―山と沢に魅せられて』(有隣堂)には、行者ヶ岳について以下のような記述がある。

「行者ケ岳には、かつて役行者の石像が祀られていた。役行者は舒明天皇六(六三四)年に現在の奈良県に生まれ、難行苦行の末に修験道の秘法を確立、遠忌一千百年に当たり寛政十一(一七九九)年には『神変大菩薩』の称号を贈られたといわれている。
 秦野山岳会の漆原俊さんが昭和十三(一九三八)年に撮影した石像は、高さ二十六センチ、幅二十九センチで、裏には『大泉房尭真、永禄十三年庚三月十日、権大僧都法印』と刻まれていた。この石像は昭和十五(一九三〇)年頃まであったという。
 中津川の八菅修験の末裔である千葉政晴さんが昭和五十三(一九七八)年十月、役行者の石像を再建した。しかし、この石像も三年ほどして行方不明となってしまった。どういうことなのだろうか」

同書には昭和15年頃まであった石像と千葉氏が再建した石像の貴重な写真が掲載されている。いまの(といっても2005年だが)行者ヶ岳には、役行者を彫った石碑が祀られているが、行者ヶ岳とその石碑については「その二」の方で触れることにしたい。

2005秋の丹沢表尾根縦走 その二につづく)

《参照/引用文献》
● 『大山不動と日向薬師 (1981年)』宇都宮泰長、鈴木隆良(鵬和出版、1981年)
● 『丹沢の行者道を歩く』城川隆生(白山書房、2005年)
● 『丹沢今昔―山と沢に魅せられて』奥野幸道(有隣堂、2004年)






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