2005年9月18日(日):晴れ:行者ヶ岳→政次郎ノ頭→新大日→木ノ又大日→塔ノ岳→金冷シ→花立山荘→堀山→駒止茶屋→見晴茶屋→観音茶屋→大倉バス停―(バス)→渋沢駅―(小田急線)→海老名駅―(相鉄線)→横浜駅
■ (2005秋の丹沢表尾根縦走 その一からのつづき)「その一」は、ヤビツ峠からスタートし、二ノ塔、三ノ塔、鳥尾山を経て行者ヶ岳にたどり着くところで終わった。その最後のところで奥野幸道の『丹沢今昔―山と沢に魅せられて』(有隣堂)を引用し、かつて行者ヶ岳には「永禄十三年」という年代が刻まれた役行者(役小角)の石像と、八菅修験の末裔・千葉政晴が昭和53年に再建した石像が祀られていた時代があったが、いずれも行方不明になったと書いた。
いま(2005年)の行者ヶ岳には、役行者を彫った石碑が祀られている。そこに刻まれた文字から山北町にある丹沢山東光院と秦野市山岳協会によって作られた新しい石碑であることがわかる。
では修験道の開祖とされる役行者に由来する山名を持つ行者ヶ岳ではどんな修行が行われていたのか。「その一」でも引用した城川隆生の『丹沢の行者道を歩く』(白山書房)によれば、日向山伏の行者道の史料『峰中記略控』に以下のように記されているという。
「ここ(ヒゴノ沢あたり?)から西の方より北へ行き、大きな岩の上に役行者(像)がある。ここに札を納め勤行・祓いを行う。ここから左に付いて下ると新客ノゾキの岩がある。ここで新客に腰縄を付けて谷を覗かせる」
この記述ですぐに思い出されるのは、役行者が開いた大峯山の修験道の道場で行われる「西の覗き」、絶壁から逆さづりにされる修行のことだ。行者ヶ岳でもそれを継承する修行が行われていたわけだ。
実際、行者ヶ岳の先には険しい岩場や断崖があり、そんな修行が行われていたことを想像することができる。
行者ヶ岳から渋滞するクサリ場を下り、崩壊が著しいヤセ尾根にかけられた木道をわたり、政次郎ノ頭を目指して急な斜面を登っていく。
政次郎ノ頭に到着。ここは南西に延びる政次郎尾根との分岐になっている。
書策小屋が建つ書策新道分岐を通過する。「その一」の富士見山荘と同じように、この書策小屋もいまは存在せず更地になっているようだ。
新大日茶屋が建つ新大日に到着。ここは北西に延びて札掛に至る長尾尾根との分岐になっていて、ベンチなどを備えた休憩所がある。
城川隆生の『丹沢の行者道を歩く』によれば、『峰中記略控』の行者ヶ岳につづく部分は以下のように記されているという。
「そこから萱野を登ると大日如来像(木の又大日)があり、札を納める。ここから峰に登ると塔ノ峰(塔ノ岳)である。この場所には弥陀薬師ノ塔があって、大きな平地である。富士山がすぐ西の方に見える。ここから北の方へ行くと黒尊仏岩がある」
新大日からブナ林を登っていくと木ノ又大日に至り、そこからさらに樹林帯の道を登っていく。
塔ノ岳の山頂に到着。富士山は上の方に雲がかかっているが、丹沢山塊の素晴らしい展望が広がっている。
塔ノ岳にたどり着いたところで筆者が注目したいのは、修験者によって切り拓かれた山の信仰がその後、どのように変化していったのかということだ。大山の場合は、「大山ケーブルバス停から大山寺へ―2006秋の丹沢・大山詣で その一」で書いたように、江戸時代になって家康の改革によって修験者たちは下山を命じられた。
大山を追放された修験者たちは、坂本や蓑毛で大山信仰者の講中づくりに専念し、大山詣での先達の役目を引受ける御師となった。そんな御師の尽力によって大山詣でが盛んになり、最盛期には参詣者が二十万人に達するまでになる。
では、塔ノ岳はどんな歴史を歩んだのか。そんなことに関心を持つ筆者にとって、山岸猛男の『丹沢 尊仏山荘物語』にある「塔ノ岳の歴史」は非常に興味深い。江戸時代になって東丹沢一帯は幕府の直轄地となり、入山が厳しく制限されるようになったが、塔ノ岳は大山とともに信仰の山として登ることが許されていたという。
但し、大山詣での講中に支えられた大山の石尊信仰が華やかだったのに対し、塔ノ岳の尊仏信仰は山麓の農民に支えられた地味なものだった。本書ではそんな尊仏信仰が以下のように説明されている。
「『新編相模国風土記稿』の玄倉村の項には、「塔ノ嶽 村東大住郡界にあり、此山の中腹に土俗黒尊佛と唱ふる大石あり、高五丈八尺許、其形坐像の佛體に似たり、故に此稱あり、此山を他郷にては、尊佛山と唱ふ、土民の説に、旱魃の時、登山して此石に祈請し、雨を乞と云、又石上に生ずる苔を土人御衣と稱し瘧疾を煩ふ者あれば、是を取て煎じ用、必効驗あり」とある。この巨岩はこの山の神体であり、山麓の農民には「お塔」と呼ばれあがめられていた。つまりお塔のある岳という意味で、「塔ノ岳」の山名が生まれたようである。
旱魃のときには山麓の農民たちは、龍の形物を造り、何本かの長旒を押し立て、鐘や太鼓を鳴らし、「懺悔懺悔六根清浄」と唱えながら、三里の難路を塔ノ岳に登り、かの雷穴に石や木を投げ込んだ。雷神を怒らせると、たちまち豪雨が降ると信じられていたからだ。また、尊仏岩によい種子を供え、これを交換し、持ち帰って蒔いて豊作を願った。
この大岩の神体は大正十二年の関東大震災の余震、大正十三年一月十五日の未明の大きな余震で大金沢に転落して、その姿を失った。現在、その地には尺余りの仏像が安置されていて、昔の面影をとどめている」
塔ノ岳の山頂に祀られている狗留尊佛如来の石碑の形は、その尊仏岩を模しているのではないかと勝手に解釈しているのだが、果たしてどうなのだろうか。
山頂に建つ日ノ出山荘。いまはもう取り壊されて、存在しないらしい。
下りは大倉尾根だが、まずは大倉尾根と鍋割山への道との分岐となる金冷シに向かう。
金冷シから大倉尾根に入り、しばらく行ったところから、今日歩いてきた表尾根とその向こうにそびえる大山を眺める。
大倉尾根から塔ノ岳の山頂を眺める。日ノ出山荘の建物が小さく見える。
大倉尾根から富士山を眺める。だいぶ霞んではいるが、頂上で眺めたときより雲がとれてきている。
花立山荘のわきに祀られた馬頭観音。歴史を感じさせる石像だが、奥野幸道の『丹沢今昔―山と沢に魅せられて』(有隣堂)には、昔の大倉尾根が以下のように表現されている。
「かつては「尊仏さん」の参拝路として多くの信者を迎え、五月十五日の祭礼日には尾根のあちこちで青空賭博が開帳され、にぎわったという。また、マキやカヤなど地元民が生活の糧を得るための道があり、今でも「一本松」「駒止め」などの地名が残っている。「駒止め」は、ここまで馬でのぼってこられたことからつけられた」
花立山荘の下は丸太階段がつづく。
丸太階段の先にあるガレ場を通り抜ける。
だいぶ高度が下がり、樹林帯の向こうに見える市街地が近く感じられる。
木立の間から東側を見る。表尾根は雲に隠れている。
石畳の道を下る。時間は16:40。だいぶ陽がかげってきた。
登山道の出口にある丹沢大山国定公園の案内板にたどり着く。車道を歩いて大倉バス停に到着。バスに乗り渋沢駅に向かった。
(2005秋の丹沢表尾根縦走 了)
《参照/引用文献》
● 『丹沢の行者道を歩く』城川隆生(白山書房、2005年)
● 『丹沢 尊仏山荘物語』山岸猛男(山と渓谷社、1999年)
● 『丹沢今昔―山と沢に魅せられて』奥野幸道(有隣堂、2004年)