2007年10月24日(水):晴れときどき曇り:浅間山→蓑毛越→本坂追分→大山頂上→不動尻分岐→見晴台→浄発願寺奥の院→白髭神社(日向神社)→日向薬師バス停→伊勢原駅―(小田急線)→海老名駅―(相鉄線)→横浜駅
■ (駅から登る丹沢・大山 その二からのつづき)「その二」は、善波峠からスタートし、念仏山、高取山、不動越を経て浅間山にたどり着いたところで終わった。
浅間山の先の道では、西の大山門前町だった蓑毛からの道と二ヶ所で合流する。手前の合流点である蓑毛越は休憩所になっていて、そこを過ぎると急登になる。その急登の途中で再び蓑毛からの道と合流する。この道は蓑毛から登拝する裏参道になる。
急登の先の左手に首のない6体の地蔵が並んでいる。おそらく神仏分離、廃仏毀釈の傷跡とと思われるが、宮崎武雄の『相州大山―今昔史跡めぐり』(風人社)を読んで、この場所が賽の河原(西の河原)と呼ばれることを知った。本書ではその賽の河原(西の河原)について以下のように綴られている。
「首のない地蔵が六体、佇む。廃仏毀釈運動の名残だろうか、無惨である。左の大きな地蔵の腹部に「大山西坂本」、袖に「奉造立相州大山寺」と刻まれている。ここは罪人を処刑したお仕置き場だったというが、参詣道の脇に処刑場を作ることは不自然である。一説には、処刑場は蓑毛側の寺山の山裾にあたという。
古老の話では、昭和三十年頃まで伝染病で亡くなった人の火葬は、大山町内の衛生担当の人がやっていた。上の三町(坂本、稲荷、開山)は浅間山の千畳敷で、下の三町(福永、別所、新町)は大滝付近の山中(堂山)で焼いたという」
登山道わきの大岩が目につく。
本坂=表参道にはいくつか古い標石が残されていたが、この裏参道にも古い標石が見られる。本坂の古い標石は「町目」と刻まれていたが、こちらは「丁目」が使われている。但し次に出てくる標石だけは「町目」が使われている。
「その二」では二度、異なる赤い実に出会ったが、また赤い実に出会う。葉の様子からしてナナカマドではないかと思う。
二十八丁目の標石が境界を強調するように立派なのは、隣にたつ女人禁制の碑と関係がありそうだ。江戸時代にはこれより山上への女性の登山は禁じられていた。
裏参道が、阿夫利神社下社に至るかごや道と合流する場所には、「御拝殿道」と刻まれた重量感のある道標が置かれている。
本坂と合流する本坂追分の手前はガレた道になる。
本坂の十六丁目になる本坂追分に到着。ここはテーブルやベンチのある休憩所になっていて、宝暦十一年(1761)建立の大きな道標がたっている。
ちなみに写真に写っているのは正面ではなく右側面。正面には「奉献石尊大権現大天狗・小天狗御寶前」と刻まれ、この右側面には、下の少し小さな字も含めると「従是右冨士浅間道 東口洌走江十四里 小田原最乗寺江七里十町」と刻まれている。
この本坂追分から表参道に入り、その先についてはもう何度か書いているので、今回は省略する。二十丁目の富士見台から富士山は見えなかった。
大山の山頂に到着。御神木の雨降木がきれいに色づいている。奥野幸道の『丹沢今昔―山と沢に魅せられて』(有隣堂)を読んで、この雨降木が二代目であることを知った。本書には一代目の写真が掲載されているが、そのブナの大木は、写真の手前にある石段のわきにたっていた。かなりの樹高に見えるが、枯死してしまったらしい。
山頂の阿夫利神社本社。祭神は大山祇大神。前掲『相州大山―今昔史跡めぐり』には、「本社の下に大きな磐座があり、これがご神体で、青い石だという。『ご神体は秘して開帳でず』とされ、宮司以外は誰も窺い知ることは出来ない」と書かれている。
摂社になる奥宮。祭神は大雷神。
雨降木の手前、左手に見えていたのがもうひとつの摂社である前社。祭神は髙龗神。
山頂から丹沢表尾根の展望。だいぶ霞んでいる。これでは富士山を拝むことはできない。
山頂から大山三峰山や鐘ヶ嶽、厚木方面の展望。
山頂付近はだいぶ色づいてきている。
山頂にあるアンテナ施設。
山頂で用意してきた弁当を食べ、風景を眺めながらしばらく休憩したあとで、今度は見晴台に向かう。
ご神木の雨降木と同じように、登山道のブナがきれいに色づいている。
本日4種類目の赤い実。おそらくカマツカではないかと思うが、保証はできない。
見晴台に到着。ベンチで休憩しながら大山を眺める。休憩所のわきに広がる一面のススキが季節を感じさせる。
見晴台からさらに下ったところに佇む勝五郎地蔵。前掲『相州大山―今昔史跡めぐり』では、以下のように説明されている。
「勝五郎は信州高遠の石工で、技術力があったのか勝五郎が造った石造物は伊勢原に多い。この地蔵は嘉永六(一八五三)年に建てられた」
日向川に通じる沢をわたる。
大山への道を示す古い道標が残されている。
林道に出たあと、「頂上本社を拝し、日向薬師に下る――2006秋の丹沢・大山詣で その三」でも立ち寄った浄発願寺奥の院に向かう。この史跡は林道を隔てた向かい側にある。その歴史や背景については昨年の記事を参照していただければと思う。
昨年ここを訪れたときには整備の真っ最中で、場所によっては工事現場のようになっていたが、すでに整備は完了していた。
宝篋印塔の隣の石仏や石碑群は、整備の間、便宜的にここに集められていると思っていたが、そうではなかった。一年の間にだいぶ草が伸び、石碑や石仏も風景に馴染んできている。
昨年は台座を設置する途中で、地蔵は横たわっていたが、いまは立ち上がりきれいに並んでいる。廃仏毀釈がかつての浄発願寺にどのような影響を及ぼしたかは定かでないが、六地蔵の姿は、大山裏参道の賽の河原(西の河原)にたたずむ地蔵を思い出させる。
昨年は石段だけだった山門跡に真新しい石灯籠が置かれている。昨年ここを訪れたときにはヒルに吸いつかれて退散し、次回は詳しく紹介するようなことを書いたので、この山門跡の石段を登っていきたいところだが、なにぶん今日は長距離を歩いているので、この奥まで行くのはきつい。紹介は次回に持ち越すことにする。
日向薬師バス停に向かう途中で目にした柿の木。丸々とした実がなり、葉が色づきはじめていた。
浄発願寺奥の院は山門跡から山の中腹にある堂宇跡までかなりの距離があるので諦めたが、その代わりにバス停の手前にある白髭神社に参詣することにした。白髭神社(日向神社)の祭神は、熊野権現と白髭明神の木像。前掲『相州大山―今昔史跡めぐり』では、白髭明神について以下のように説明されている。
「白髭明神の木像は高麗王若光の姿である。当時朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の三つの国に分かれて争っていた。その中でも高句麗は一番大きな国であった。しかし、新羅は唐(中国)と同盟を結んで高句麗を攻め、これを滅ぼした。
日本では天智七(六六八)年のことである。高麗王若光の一団は日本に亡命し、大磯に上陸して居住した。高度な文化を持っていた高麗人は地域に文化を広め、在住の住民に大きな影響を与えた。むしろ日本はこの文化人の受け入れを歓迎したような感があった。若光が行基に香木を与え、日向薬師の開創に技術的に協力したと言っても、必ずしも間違いとは言えまい。
日向薬師の開創から三か月後、若光は新たに武蔵国高麗郡に土地を賜り、一族とともに移って大領(律令制での地方長官)に任ぜられた」
(駅から登る丹沢・大山 了)
《参照/引用文献》
● 『相州大山―今昔史跡めぐり』宮崎武雄(風人社、2013年)